昭和46年03月14日 朝の御理解
御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
親が鏡を持たせて嫁入りをさせるのは、子供の幸せ、子供の繁盛を親が願う、もう願いが鏡を持たせてやっている事になると。親が鏡を持たせてやるのは、鏡に込められる親の思いというものは、どうぞ幸せになってくれ、どうぞそれには、自分の心を治めてくれ、そして、家を治めて行け。そう言う事なのですからこれはね、ですからこれを、例えば(うろううぐ?)をする娘。
逆にこれは頂くご理解ではなくて、私共がここんところを、のその本当の内容というものを、分らせてもろうて、自分の心が治まるほどしのおかげね、勿論ね、鏡と言う事は、いわ教えと、教えの鏡をね、立てさせてもろうて、自分の心の状態というものを写させてもらう、そこから自分の心の状態が曲がっておったり、よごんでおったりするそれで分かります。だからそういう所をまぁ焦点に頂かねばならんために。そこから心が治まって来る。心が治まりゃ家も治まる、まぁそういうね。
ならこの八十八節というとこ、御理解は今までは私は何時と申しますようにいよいよよりおかげを頂く事のために、ここん所を一つ本気で分らせてもらいたい。まずこの八十八節という、八十八という所でそんな事を何時も感じるね、繁盛した上にも繁盛。おかげを受けた上にもおかげを受けて行く事の為に、私共が何時も自分の心というものを、教えの鏡というものを立てて、そして限りなく清まっていく、限りなく進む生き方をさせてもらおうとね、そこから心に喜びを頂き、安心が頂けるね。
心は何時も和賀心に治まっておってですね、おかげを限りなく頂けて行く、もうここに焦点を置く以外にはない限りがない。限りないおかげ、いわゆるおかげの上におかげ、(ほりまたほが?)咲くというようなおかげ。私は八十八節はそんな大事な内容を持っておると思うんです。皆がおかげを頂きたい、おかげを頂きたいと、よりおかげを頂きたいと思うならですよね、自分の心を何時も教えの鏡に映し出させて行かなければね、そしてここがこんなに違っておったと分らせて頂かねばね。
おかげは頂かれん。よりおかげを頂く事、又神様もよりおかげを受けてくれよと願っておられる。私共もよりおかげを頂きたいと願っておるね、だからそ、よりおかげを頂きたいものよりおかげを下さろう、とする神様がここに相対する訳ですね、ですから、神様が、よりおかげを頂こうとする、姿勢を作らなかったり、精進しなかったり、するならばですね、神様が(どうかなり?)して、分からせようとなさる、それをまぁお気付という風に頂かにゃかなりませんね、私共はよ、よりおかげを頂きたい。
神様はよりおかげを頂かせたいと願われる。そこを、今のような状態では、よりおかげは頂かれんぞと、まぁ場合にたたえてでも、分からせなさろうとする働きがあるんです。言うて聞かせて分からんなら、叩いてでも、痛い思いをさせてでも、ですからもう本気で、私共はね、例えば今月の焦点であります所の、目に見えない、よう信心をすれば目に見えない、おかげを大切にしていくぞと言う事でしたがね、その目に見えないおかげを気付かせて頂かなければ、大切に出来ません。
と同時にです、目には見えないね、自分で気が付いてない、その例えばお粗末ご無礼もわからなければいけん事になりますね。目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い。そこで、私共がだんだん信心を、して行きますと、あれもおかげであった、これもおかげであってあったと、今まで気が付かなかった事の中にも、お礼を申し上げねばならない事が、少しづづ分かって行く。と同時にです、私共が凡夫の事でございますからそれこそ、相分かりませず。
そのお詫びがです、だんだん(しん?)させて頂くと、いわゆる、今日の御理解、教えを、の鏡を前に立てると、へーここもご無礼であった、ここも知らん事とは言いながらお粗末であったと分かって来るね、ですから一つ皆さん、あの知らず知らずにお無礼をしておる、そのご無礼をね、気付かせて頂いて、そう言うご無礼お粗末がないような、姿勢を本気でとらなければいけないね、それにはです、例えば親が切に、子供のために願うておる、その親の願いが分からないといけない。
親が子供がどうぞ不幸せになるようになんて言う、親は一人もありゃぁしません。それこそ、より幸せになってくれるように、より立派になってくれるようにという願いが、鏡を持たせる事になるのですからね、ですからその親の思いをわからにゃいかん。親がもうそれこそ(じぃに?)心を砕いて、子供の事を願っておる。どうぞあぁありますように、こうありますように。ですからその思いを分らせてもらう時、悟らせてもらう時ね、本当の、いわいる、親の願いに沿うて行くことが出来る。
昨日「つえだ?」さんが、ここに出て参りましてから、御届をいたしました。先日(あちら?)のお父さんが見えて、福岡にきとるから、福岡まで出てこいと言うて、福岡から呼び出しがあって、まぁ一日あちらに参りました。4、5日くらい(無いでしたか?)(とういちのまた?)今度は勇先生、ね末永先生である、が福岡え来ておって出会う事(?)それで、明日出てこないかという誘いであり、そこで末永さんが、私に言うた事は、此方が出て行くよりもね、あんたの方が出てこないかとこう言うた。
所がどうも、行く気がしないとこう言うね、私はどこまでも、あん自分の親教会である、やろ自分の本当の、今郷ノ浦と言う所に出ておりますから、壱岐の教会(をほとんど?)もうお父さんですからね、お父さんを中心に、お父さん孝行の信心もしたいと思うと。だからお前は合楽の先生に、親孝行したらいいからと(ごよなさり?)で言うた所。んだから、明日福岡の方寄らして頂きにどうしようかっとこう言う。もう家の(だんの?)じゃない、やらせて頂きなさいとまぁいうた訳でございますけれどもね。
その時に私はね、御心眼に頂きましたのはね、勇先生が、皆稽古をしておるのがね、そこ三尺ばっかり前の所に砂がこう漏ってあって、そこに的がある。三尺位なら、畳一枚縦にした所、位の所にです、お初穂があって、その三尺ばっかり手前からこうやって、弓を引いている所を頂いた。これなら馬鹿でも、ちょいでも当たりますよね。ここだもん的が。もうそこばっかりじゃもん。私その時に、末永先生にもうしましたね、親に孝行をして神に不孝をしてね、親に不孝をする氏子がある。
親に不孝をして神に孝行をして、そして後に親に孝行する氏子がある。本当の(おかみ?)はここを分からにゃいかんて言うて、まぁ申しましたがね、親に孝行をすると言うことは、まぁ少々はじゃぁ意地悪けもあって、そこん手元の所にある。だから親を喜ばせような事はすぐ、すぐ出来る訳なんです、言うならばね、もうもって親がかいうかちそこを欠いてやる、親が右に行けちゃはいちうて右に行く。はぁ本当よう言う事聞くというて親は喜ぶ、もうすぐそこにあるから。
所がですそれでは信心にならんのですね、度合いにはですね、とにかく神様の仰せには背かれませんというのが信心なんですから、良いですか、今日私が言おうとしておる、言わばね、教えの鏡を立てて、そこから出て来る答えを行じて行くのが信心なんですよ。ね。ですから、親が右というても、神様が左と言うて下さるなら、それの方が本当なんです。こりゃ親を喜ばせよる簡単な訳にはいかん。それこそ本当の例えば、遠いい所に的があってそれを、やはりいわゆる信心の稽古なんです。
当たらん事もある、とつきのない所に行く事もある、それがだんだん稽古させて頂く内に、いうなら百発百中当たるようなおかげも頂く事を、神様は願っておられる。ん、そういうおかげを頂けるようになった時、初めて神様にね、親に不孝しておったけれども、神に孝行をしておると、そして、後に親に孝行、この親に孝行させると言う事が、本当の意味での親孝行なんですね。親が鏡を持たせてやるという、ただ憎しみの親ではなくて、ここではね、天地親神様、私共がいよいよおかげを頂きたいと思う。
天地の親神様もいよいよおかげを頂かせたいと思われる。そこで天地の親神様は、私共に教えという鏡を下さる。その、教えの鏡を立てる所にです、そこに自分の姿を写してみる所にです、間違いが一目瞭然はっきりするのだけれどもね、そこん所を行じて行こうとしない。それでは、おかげにならない。私共がおかげを頂きたい。切におかげを頂きたい。そのおかげを、神様が下さる事の(たろんだ?)ね、そう言う事ではお前が願うておるようなおかげにならんと言う時にはです。
まぁ言うならばどう言う事になりましょうかね。昨夜って言うのは今朝方ですよね、朝1時半頃でしたか。私はまだ休んでおりませんでした。そしたら母があわたたしゅう、それこそ歩けないのをもう一生懸命であの、長い廊下を私共の方えばたばたやってきとる、来ながら、お母さんお母さんと言うてから、あの起こしに来ました。私は父が具合が悪いのかと思うてすぐ私が起きとりましたから、ふすま開けましたら、勝彦が具合が悪いとこう、そしたらもう、ふすまを開けましたら。
もう(けんとにように?)あの廊下を一番はしからはしまで、あそこね私、(おうせ?)の部屋で休んでおりますから。もうそれこそ、途中で、廊下で翠先生に合いましたが、どうしたんの勝彦て言いました。もう(向いますん時に?)聞こえたんでしょうね、起きてきた。若先生が狂いよりなさいますち、はぁもうほんなこて(やがみ?)のするようなあの、狂いようでしたですね。ん、もう子供どんが(しゅくるず?)おかあさんちてもう、お母さんば一生懸命お呼びよるとじゃん。
だから家内がすぐ、部屋に行きました、私はそのまま、部屋の前に、前にも行きませんでした、そのまま着物着替えて、御神前にてまいりました。神様お気付を頂いて有り難うございます、私は一番それを申しましたら、ここの御広前、それこそあのめまいがするような御勇みでした。御気付を頂いて有り難うございますとこう言う。それからまぁ次々と、様子いわいる今言う狂うておる、これを聞いてきておりますから、ただ今この様に苦しんでおりますと。
これによって本人がどうぞ、分らせて頂く所は分らせて頂いて、おかげをこうむりますようにと言うて、ならどういう所をわからんな、分からせゆうのかと、言う事、を(など?)お願いさせて頂きおりましたら、昔はあの、一人一人の(じょうぎがぜん?)というのがありましたよね、あの(はこぜん)のような、一人一人に使う。その、そのたかが(はくぜん?)です。ちょっと(こうぐりのはくぜん)にですね、それにこんなに長い竹のくしで焼いたような魚をです。
焼いてもういっぱい散らかし回って、例えば(のっぱらで?)あの、例えば食べる時のような状態でこのおぜんが、あの、汚れ、散らかしておる所を(きらきなおった?)私も前々から、そりゃぁ感じておった事でもありましたが、そういう例えば(ひろうけんち?)お知らせを頂いて、もう本当に相済まん事でありますね、もうこれは、私の目に余るほどに(じょうか?)はあるんです。勝彦もう本当にあのいっ信心させて頂いてですよね、凝議が悪かったら、本当なおかげは受けられませんですよ。
ろくそなか人は。次にはね、フグのね大きなフグの魚を、しっぽを(わらに?)くくってから、ぶら下げられとる所を頂きましたね、こらは私、もう20年前でしたが、「きやの?」教会にお話行った時に、頂いたお知らせですけれども、丁度ご結界のここにですね、あの大きなフグがここにこう、フグ提灯ですね。だからフグ提灯のに下がっている所を頂いた。ははぁ、金光さまって言うお方は、フグ料理のようなお方(何とか、された、だらか?)と思いましたね。
金光様もです本当に有り難く頂きゃっぁもうそれこそ天下いっぴんの珍味何です。けれどもね、一つ間違うたら命に関わるような事にもなるぞと言う事。だから金光様の信心はね、確かにねあの、有り難いと光栄と言う事が二つ分からなければ、金光様の信心は出来ません。有り難い神様だなーという事と同時にです、恐い神様じゃなと言う事が分かる訳なんです。だから皆さん、恐い恐いって言うしかなかったら、信心なりませんけれどね、問題はね、だから間違うたら恐いと言う事ですね。
問題はんならその天下一品の珍味と言う味わいのおかげを頂きたいのなら、結局水洗いをするをするでしょう。もうもうとにかく一匹の魚に何度かの水を使うならんと言われるくらいに、水洗いを要求められるのがそうですよね。皆さんもご承知の通り(わたぐる?)一心をお縋りさせて頂きよりましたら、そのフグのこう、ぶら下げられておるのが、こう(みずめて?)下さった、たらすうと下え落ちて、泳いで行く所を頂いた。
ほほう、これは私共もフグを目指さなきゃならんが、勝彦もやはりフグのような素晴らしい先生に取りたてようとなさる(ぶがい?)があるなと、私は思いました。20年前頂いた、お知らせから頂いてです、はー金光様ていう方はフグのようなお方だと。悪い事してですね、お気付でも頂かんていうなら、もう絶対もうあなたの信心な詰まらんとです。そういう意味でまだ勝彦には、お面がかけられておる、まだ詰まらん事はない、言わば期待があるからこそ、おかげを下さるんだと私は思うて。
もうこれはね、皆さんの前に今度のん事始め、言うようですけれども、もう私が一番すかん事を平気で(やってなけり?)ですこの人は。私はだから、思いよりました、これは親に、抵抗しよるとじゃろうか、反抗しよるとじゃろうかと思う位ですね、第一もう私が嫌で嫌でたまらん勝負事をするですね、なんもそうまで(将棋?)をする、ボーリングに行くね、勿論(あいまいま?)です。
してみると、だから自分としては、人の所ちゃんと努めておるからと言う事でしょうけれども、そういう凝議の悪い事ではもう、金光様の先生になれん、資格は、(もろちゃないです?)ね。もう、ま、これはもう私が一番好かん事を平気でやってる訳です、だからこの親に反抗しよるとじゃろうかと私が思うくらい。けども勝彦の事の場合だけは、私は他の子供達に、兄さんげん真似どんしちゃでけんばいて、兄さんはね、あれでちゃんと兄さんは兄さんなりに考えがある事じゃから。
あんたどんが、分かる、分かる事(や?)ない、深い事考えてのことだから、と私は本人一遍言うて起きたいという位に思いよったです、最近は。実際はしませんでしたけれども、ね、これは私勝彦の事をお願いさせて頂いたら、ちょうどあの(無能?)のさん、(さんちょう?)をですね、ゆくようなので、私は、あれがまだあのう若い時にですもっと、ん、修行に行く前です、厳しい教会に修行にでもやろうかと私が思うて神様にお願いしたらですね、それは必要なか。
例えば、みのう山を下から伸ばせるようなもんは必要は無い、頂上を間違いなく歩いてさい行けばいい。(頂上をね?)頂上を歩いてさい行けば良いと言うお知らせを、これは、(10何年?)前に頂きましたから、もうこの人に限っては、私は絶対言わんです。又言うて聞く人じゃない、言うたら反対をするですこの人は、必ず。例えばね、例えばあのご祈念ならご祈念をする時に、もうどうもなんか、ちった(おふんごと?)拝み屋さんのごたる拝み方をするから、そげなんあ、拝み方をしてから可笑しかから。
(当たるまで?)一生懸命に拝めという(キリストと?)その次にはもうすたおーと、今度はもう程度を落としてから拝む。私(言うたこと?)しません。こりゃぁもう本当、私は(どんが、クィンクしたけれけん?)こりゃ神様にお願いしなきゃできぇんて私は何時も思うております。こればかりはね、ですからどういう例え目に余るような事があってもです、私はいわいる、いわいる山頂をこう歩いて行けばよいのであるけれども、これを歩かずに、間違うた事を、下からはい。
登って行くような修行は、勿論私は、あのまぁ言いませんけれどもですね、ですから今ん所ではどういう関所が有ってもですね、親と一緒ですから、親の手方でその関所を通っておるようなもんだけれど、もう親ばっかりは頼らせられない、ね、親がおらんごつなったらどうして、次の関所を越すか。手方なしに。だから神様は、どうでも勝彦事態に、次の関所の手形を渡して下さろうとする働きはあるんです。本当に勝彦に力を与えたい。勝彦に本当の手形を与えたいという願い。
いわる合楽二代を継がせなきゃならない。そういう特別な、言わば働きをですね、頂いて、これはあの人が、えー、例えばあの(はしをほりあしひろあるくて?)え、はいはいして、ここにご祈念に出て来るような、あの時代がありましたですね。あの自分からはいっちうし、それこそ厳しい神様の押し付けを頂きよる時です。親が言わんから神様がして下さりよる。だから一番親方は、二代を継がなけばならないのであるから、もう山頂の方を、こう(とうざけて?)だから親方が真似をしちゃぁいかんぞと。
兄さんは兄さん達の願いがある、兄さんは兄さんで深い思いがあっての事。だから、んなら光昭なら光昭、幹三郎なら幹三郎でもね、兄さんの真似をしちゃぁいけんよと、私は本人に言うておきたいていう、まぁ今日は、御理解でこう申しておりますが、この人達は又、おかげを頂いたら、布教所に布教でも、言わばあやうち布教にでも出らなきゃならん。だからこの人達は、一つ一番下から這い上がらせなきゃならない。そういう修行をさせなきゃな出来ない、という風に私は思うんですね。
それを兄さんがあぁだからと言うて、兄さんが真似ごんしよったのんじゃおかげは頂けない、何時までも合楽教会の(かかりうと?)にならにゃならん。ん、例えば、ならこれ、これの一番の例えまぁ例を言うと、幹三郎がそうでしたでしょうね、僕は教会に(いよいよ参るくるけれども?)お道の教師にはならん。僕は建築家になる。それでも私は黙っておる、それでもいいと思うておるから。所がどうでも神様が、いよいよおかげを下さる事のための働きが、あの肉腫だったね。
それで自分が一心、一心発起して、御道の教師にならせて頂く、これなんかはもう、それこそ勝彦よりも、ひどい思いを幹三郎自身にさせなさった訳なんですよね。昨日私は、あのー、それこそ(やがん?)でするような苦しみを、もうこっち側の廊下を通って行きながら、もうこのまま普通で言うなら死ぬとじゃなかじゃろうかと思うくらいに、ひどかったですよね、翠先生が、若先生が狂いよりなさいますっとこう言うね、けども私の場合なんかは、もう助けて下さいとかどん。
もうこれは間違いなしお気付に間違いない、と私は思わせて頂きましたから、そのお気付をお気付と本人が分かってくれてね、改める所を改めて行ってくれればです、いうなら他に、例えば、ね、いう事はありませんも。けれども親のすかん事を平気でやる、やるなんて言うような事やらは、こりゃぁもう本当言うたら、許されないね、こげな事すると親先生がきらいなさるから、こげな事をする、こげな態度を取ると(親先生?)がすかっしゃらんからと言う事なんかは十分分かっておりながら。
だからそれがです、私えに対する抵抗ならばね、まだいいです。良いですか。ね、私に対するは、まぁいうなら反抗であるならば、それはまだ許される。けどもそう言う事やら、態度やらがですね、神様の前に平気ですると言うならばどう言う事になりますか。わがまま、横着でしょう。もう実意丁寧が生命とさえ言われるのですから。それを(かいどう?)のですから、神様がいわいるお気付くださるのは当然の事なんです。
今朝方家内があす、あちらしちも何も入ってませんもんですから、がたんとあそこて、もうお、私がご祈念を終わって行きました時にはもう(やすが?)静かになっていました。だから私ちった開けて、家内から、家内がおかげ頂いております、ただ体全身が痺れて、頭が痛し、痛いと言うておる家内は、一晩中んーかいほうさせて頂いとります。そして、家内が、あの今日はんなら光昭(あんやこうこう?)して、今日は、私は今日は本当に光昭と幹三郎が、何時もついてきますから。
光昭も、もう一緒に連れて、今日は私が控えで、今私、皆さんに聞いて頂いたような事をね、30分間か光昭とも幹三郎に聞かせようと実は思いました。所が家内が、あの勝彦はどうでも、あの、ご祈念にだけは出らして頂きたいから、あのお願いしてくれといよりましていて、(後?)見てきましたから、はぁそんならもう、それで良いけん、ほうてい、あの出るように言うておいてと言うて、たらおかげで、例えばどうですか、今日のご祈念の有り難い事ね、本当にもう、(こばいりょか?)ちゅうごて来るですけん、この人は、一生懸命になるとならないというたね。
だから本当に私は、おかげを頂いてね、す素晴らしいという事と、すとっとおかげを落とす事のあんまりにも激しいからですね、というてならこれを言うて聞かせてでも分からせると言うのが私の流儀ではございませんからね。これはもう言うちゃぁならん、神様がおかげ下さるんだからと思うております。そして昨夜から今朝にかけての、そういうもうそれこそ、とてもあなたもうほんなこてもう母さん、お母さんてわんわんない、泣きよるとです。そりゃぁもう、本当に翠先生が、若先生が狂いよんなさいますと。
私は此方の廊下を通って来る時で、家鳴りがするごたった。それが苦しいとってね、いわいるフグが吊り下げられとる所。けれども初、二代はね、二代が、二代ね、次の二代にはですね、フグのような先生にでも取りたてて下さろうとする願いがあるからこそ、厳しいお気付下さる、これは有り難い事でしょうね、幹三郎の場合でも同じ事ね、二代が(そば?)いい先生にして下さるために、生きるか死ぬかの所を通らせて下さった。その中の一番、元々の所は、御道の教師を志望してない。
他の神様の願いの、他の事を自分の願いにしておる所を分からせて下さろうとする働きが(あんなの?)事であった訳ですよね。そこでですね、昔から親が鏡を持たせてとこういう、親の、親が鏡を持たせるということはね、どうぞ子供の幸せを願いきって、ね、その、止むに止まれん思いが、鏡を持たせると言う事になる親の願い。だからなら教えの鏡ですね、御教えというものはです、信心しておる一人一人の上に下さる。
だからこの教えと言うのは、神様がもう切実に、止むに止まれん、氏子信心しておかげを受けてくれよという、おかげを受ける道すがらの、言わば教えを下さる。八十八節ね、もういよいよ広がった上にも広がって行く。よりおかげを頂きたいとは皆が思うておる事でしょうが。どうですか。これだけでよかっち思うとんらなさらんでしょうもんね、そんためにはです、目に見えないおかげを分からせて頂くと同時に、目に見えない、自分で気付いていない、いや気付いてからでも平気でご無礼をしておるような事をです。
今月の焦点である(とこ?)目に見えないご無礼を分らせて頂いて、気付かせて頂いたらね、そこから立ち上らなければならない、いよいよおかげを頂きたいなら、なら神様もいよいよおかげを頂かせて下さりたいと願っておられる。いよいよおかげを受けたい、よりおかげを頂かせて下さる、たい、神様と私共が相対してね、そして神様も切によりおかげを頂かせたいという願いを聞いてやろうと思いなさるけれども。
そういう態度、そういう心の状態では、おかげにゃならんぞと言うて下さっても、教えの鏡を前に立てようともしないね、そこで神様がね、痛い思いをさせてからでも、そこん所を気付下さろうとする働きなんです。今はまだ親父がおるからね、親父の手形で関所も通って行きよるけ、けれど、けれどもね、親父がおらんごつなったら、次の関所は何を持って通るか。神様から許された手形を持っとらなければ、通って行かれんのだぞ。ちゃぁそこん所を分かってしっかり一つ手形の頂けれる信心を受けてくれよと。
例えば、昨日は神様がね、大きな声でいうて下さったっと思います。そして、そんならどこを指摘されたかというと、凝議ね。いや親先生今ね、凝議じゃはね、凝議じゃ凝議じゃ言うて言うね。明々に(はかせる?)その凝議ね、ままんなって行くとことのための、その凝議が悪い。信心の凝議が悪い。そこをまず気付かせて頂いた、そこを改めて行け。次にはね、親がもう(ふーふー?)いや(ルール?)を握る事。好かん事を平気でする。ね。この神様は有り難う頂だきゃぁそれこそ、フグのように天下一品の珍味のような、味わいになるおかげではあるけれども。
一つ間違うたら、命に関わるような事にもなるぞとね、そのぎりぎりの所の、言わばお知らせを下さった。水洗いが足らん。今日はここで私は、(いわい?)皆さんに、皆さんにも聞いて頂いたが、子供達がに来ておりますから、子供達に聞い、聞いてもらう、私が今日は、ここに出る前に、子供達に話しておこう思うたことでしたから。それをそのまんま頂きましたら、ご理解に八十八節を頂きましたがね、八十八節というのは、いよいよよりおかげを下さる(おとすう?)働き。
又よりおかげの、ここんと所を行じしてさいちゃ、いよいよよりおかげの頂ける道が開けるという(なんかい?)だと。皆さんが例えばお願いをなさるね、どうぞおかげを頂かせて下さいと願う。だから神様にもどうぞ、(のんき?)で来るよていいよりなさるとじゃから、すぐ頂けるような(ランプじゃ?)だいたい言うとね、所がお前がどうぞという、その、願うておる、ならですね、その受け物では、同じだぞと。折角の例えば、御神酒を下さろうとするのに、油(ビン?)どん持っていったっちゃ、折角の御神酒が油(こすげて?)しまう。
(しょうひん?)どん持っていったっちゃ、(しょう?)となってしまうね、一升下さいっち言うちから、(ごんご?)びん持っていったうんじゃ、後五がこぼさなならんでしょうもんね、しかも切に願う。それは神様の願いが、私共(の?)勝彦、若先生の上にかけられておる事が切実であり、又事実であるからこそ、例えばそのようなお気付を頂いたんだと言う事を思う。こりゃ又本人の願い、そういう例えば生きるか、死ぬかち、じゃろうかと言うごたる所を通らせて頂いたら。
ちょっとやっぱり5時には、今日はここに出てきて、皆さんが一緒にご祈念頂かれたような、今までかってないような、有り難いご祈念をいたしましたでしょうね、だから神様はね、有り難い事なら絶対聞いて下さるですよ。だからそれそれだけで、すむのじゃないね、いわゆるお気付として、ここを気付かせて頂けよ、ここを分らせて頂けよとしてしてく、して下さった所を、これから改まっていかなければ、何回もお気付くださるでしょう。それでも聞かんなら、それこそね。
フグを頂きそこのうたら、どういう事になる。命に関わるような事にもなろうぞと言う、お知らせなんですね、ですから金光様の信心は、有り難いと言う事が分かるという事と同時にです、又神様が恐いお方じゃなと分らせて頂かねば、私は本当に一人前じゃない。ん。神様が厳しゅう、私共に信心の仕付けをしてきて下さる、だからその仕付けをして頂く、その仕付けをです、本当に受けていかなければなりません。
いよいよ教えの鏡を前に本気で立てさせて頂いたらね、はぁここが間違うておったと、とにかくお気付を頂く前にまず、分らせて頂く信心を頂かねばなりませんね、教えの鏡を立てればはっきり分かるのだから、その教えを好い加減にする、右左にするそこで神様に歯がゆい思いをさせる、事になるわけなんですね。そこで私共は、鏡を見て自分の汚れておる所が分かったら、それを取らせて頂く、心が曲がっておるなら真っ直ぐする、心が汚れておるならきれいにする、そこに心が治まる。そこに家が治まる。
と言う事になるんですね。(にし?)家を治めようと言う事であると。悲しい辛いという時には、鏡を立てて人に悪い顔を見せずに、家を治めて行けという事であると言うておられます。まずそれには、自分の心が治められなければなりません。もう自分の心を治める為には、頂く御教えを鏡にして、改まって行く所に心は治まってまいります。安心が生まれてまいります。喜びが頂けるのですね、そういう一つおかげを頂いて頂きたいと思いますね。
どうぞ。